7~8年前にこの本と出会い、現実主義的だった自分の思考が広がったように感じる本です。続編も含めて著者の本を買っていますが、思考が広がる(そして迷子になる)感覚を変わらず持っています。
ちょっと時間を置いてみると、変わらず新しい発見に繋がる。そんな本のご紹介です。とても長いので、簡単に内容を6つに要約しました。
- 「願い」とは不足の裏返しであり、“なりたい”と願う限り、叶わない状態が続く。
- 現実は観念と解釈の投影である。意識を「充足」に向けることが、幸せへの第一歩となる。
- 感情も正義も選べる。矛盾すら受け入れたとき、人は自由になる。
- 人は生まれながらに承認されている。“認められたい”は幻想である。
- 他者に与えることで、自分の充足が見える。“苦労”すら願いの成就だと捉えるべきである。
- 後悔は“選ばなかった選択肢”の幻想評価であり、迷いは解釈で昇華できる。
要約の要約…という感じかもしれません。読めそうであれば、以下もどうぞ。
▼ すべての願いは叶っている
いきなり「そんなわけない」と思いがちのタイトルですが、中身を吟味すると確かにそうなんですよね。…考えているうちに、頭がおかしくなりそうに何度もなりましたが。それは「会社に行きたくない」と願いながら、同時に「会社に行きたくない」と願っている人間のせいで苦しみが生まれているというのが、この本の解釈です。
「会社に行きたい」というのは自分がその会社の選考を受けて、受かりたいと頑張ったからです。親を人質に取られて「○○という会社に入社しないと、酷い目にあわせるぞ!」と、見知らぬ人に脅迫されたからです。あなたが何かと比較して少なくとも、その時点での選択肢で選び抜いた願いなわけです。
一方で「会社に行きたくない」という願いを、同時にしてしまいます。理由はともあれ「じゃあ行かなければ?」とすると「生活が…」とか「お金が…」と、何かしらの理由をつけて出社しようとします。
これは結果的には「会社に行きたい」という、自分の願いを叶えているからに他ありませんよね。ただ、そう思えないのは自分が上手に願えていないからです。
① 願いが叶う頃には、願ったことを忘れている
② 叶ったことが複雑すぎて気づけていない
③ 願いを間違えて変な形で叶う
といった理由から、自分の願いが具体的に叶ったことに気が付けません。特に願いを複雑にしてしまったので、現実的に起こる不可解なことは全てのその願いのせいだとしています。
”あなたが「叶っていない」と思っているその願い、本当に、そう言い切れますか?”
▼ 解釈は人の数だけ
「信じたい」という気持ちも、本の中でだいぶ時間を割かれています。その人が心の中で「絶対にそうであってほしい」と願っていることがあるうちは、その願いが必ず叶います。
① 簡単には幸せになれない → 幸せは苦労を経てから
② 努力すればお金は手に入る → 努力しないでお金は得られない
③ 自分は幸せではない → 自分だけは幸せにしないでくれ
という形で、全て願いは叶ってしまいます。各々に常識を形成しているので、その人の現実において願ったことは叶ってしまいます。口に出すことではなく、心の奥深くに思っていることこそが真の願い、つまりは「信じる」です。
現実に起きていることは、ただただ「起きている」というだけであり、その解釈に正解はありません。薔薇の花を見て「キレイ」と思うのか「刺々しい」と思うのか、はたまた「妖艶」と思うのかという”解釈”に正解はないのです。
であるならば、世の中にあるすべての事象を「幸せ」だと解釈すればよいというとてもシンプルな結論になります。解釈一つで現実の意味合いが変わるのですから…。
そう、私の病気も解釈一つで「幸せ」にすることが出来る。…という、大変困った結論が導かれています。
”今のあなたの現実は、「どんな思い込み」でできていると思いますか?”
▼ 思い込みで願いが叶う
先ほどの話をもう少し紐解いていくと、意識には「潜在意識」と「顕在意識」があるというのが人間の自然の姿です。口に出しているのが「顕在意識(宝くじに当たりたい・会社に行きたくない)」ですが、逆に心に思っているのが「潜在意識(宝くじには当たらない・会社にはいきたい)」になるわけです。
このうち潜在意識は大切な願いの結晶として「観念」として、自分の中に色濃く蓄積していきます。その作用は自由自在で、関係ない者同士でも結びつけることが出来ます。お金持ちを「難しい」とくっつけたり、お金を「幸せ」とくっつけたりすることは自由です。
お金を得るのは別に難しくもありませんし、お金が無いことが幸せではないことは本来関係ありません。でもその人が潜在意識の中にある「観念」としてくっつけたのであれば、その願いが叶ってしまうのです。
それを、人は「固定観念」と呼びます。
”自分でも気づかぬうちに、“望まない現実”を叶えてしまっていませんか?”
▼ 自分の固定観念
過去に作り上げた無数の「固定観念」は、どの様に見つけられるのか?それは現実世界を見ればわかるそうです。現実にはその人が信じているモノが、溢れている訳なので。過去にどのような解釈をしてきたのかというその結晶を、現実世界を通じて見つめ直すことが出来ます。
固定観念が見えてくると、多くのカテゴリーとして「感情」や「正義」と言ったモノが見つかります。「感情」とは本来は自分の中で選び取ることが出来るもので、勝手にあふれ出てくるものではない…はずです。目の前にある出来事についてどう思うのかは自分が決めていいのですが、なぜか感情に流されがちです。
「正義」についてもこの世は何を信じていてもいいというルールの中で、自分が思い込んだ「正義」が人には必ずあります。正義を理由であれば、人はいかなる悪も出来る…という間違えた解釈が、この世にあることもこの理由によるものです。
「感情」や「正義」に固執せず、自分から改めて能動的に選択をすることが必要とされています。「感情」や「正義」はあなたが望んで選ぶもので、支配されるべきものではありません。
固定観念を見つけるとても良い機会ですので、その習慣に気がついた時は「別の」感情や正義を信じてみることが新たな発見に繋がります。
”あなたが「正しい」と信じてきたその価値観、本当にあなた自身の意思で選んだものですか?”
▼ 人はなぜ苦しむのか?
人が苦しみを感じる時は「表層意識」と「潜在意識」という2つの矛盾を信じるからです。どちらも自分が信じたものなので、どちらも正しいからこそ人は悩みます。
根本的な解決策は一つしかなく、今の現実を「どう思いたいのか」を表明するしかありません。起きている現実を変えることは、鏡の中に移っている自分を変えるようなものでうまくいくわけがありません。まずは鏡に映る自分を変える必要があり、その結果として鏡に映る現実が変わっていくのです。
「現実をどう思いたいか」を自ら意志を持って、表明しましょう。泣いている自分、怒っている自分をどうしたいのでしょうか?笑いたいのであれば、まずは「笑っている自分」を想像していくしかありません。
現実には意味などはなく、様々な「解釈」があるだけです。どう思うのかは、自分が自由に決めていいのです。
正確に言うと「どう思うか?」は過去の固定観念に基づくモノなので、今の自分が「どう思いたいか?」を変えていく必要があります。その出来事に「怒りたいのか?」「感謝したいのか?」「笑いたいのか?」を決めていく必要があります。
”苦しみの原因は、他人ではなく「自分の中の矛盾」かもしれないと考えたことはありますか?”
▼ 正しい想像の仕方
能動的な想像をしていくにあたり、一つ注意点があります。それは「否定語」を使わないということです。「~したくない」という否定的な表現ではなく、肯定的に「~したい」と考えられるようになるにはある程度訓練が必要かもしれません。それくらい人は「否定語」で世の中を願っています。
肯定の状態を考えると、時間軸の整理が難しかったりすることも事実です。老後のために働くという目的は「何もしないことが夢(老後は働かなくてもいい様に)」なのですが、それであれば「じゃあ今働かなければ、その夢が叶う」となったりもします。
正しく想像するということは、結構難しいんです。
正しい想像の仕方を羅列していくと
① イヤなことを考える(例えば 貧乏)
② どうしたらいいかを考える(例えば 宝くじ)
③ どうなりたいかを考える(例えば お金持ち)
④ どう感じるかを考える(例えば らく~な感じ)
⑤ どうありたいかを考える(例えば 幸せな感じ)
となるのですが、これは現実的には③に対しては②を介す必要がないことが事実としてあります。さらには④に対しても③を介す必要も、特にないことも言えます。②や③を介さなくても、④や⑤の状態になることが出来るということに気がつければ、大きな進歩かもしれません。
そして難しいのが「~になりたい」と願うことは、究極的にはその通りにならないということです。それが叶うということは、例えば「お金持ちになりたい」と思い続けることが願いとなるからです。お金を持ったらお金持ちになりたいとは思えないので、結果的にはお金持ちになれません。
論理的にはとても複雑に見えるのですが、ここまでの論理を統合していくと「~たい」という願いが叶うことは永遠にありません。その状態になってしまえば、その状態に「なりたい」という願いが叶わないからです。
”あなたがいつも願っていること、それは「叶わない形」で願ってしまっていませんか?”
▼ これからの思考方法
現実を信じたくない時に、人は現実を受け入れられない様々な言い訳をつくります。その才は素晴らしいもので、考えられないほど様々な言い分を耳にすることになります。
ただ大事なことは、パズルの足りていない数ピースの不足よりも充足した数多くのピースに目を向けられるかどうかだと思います。充足を身の回りから探すと満ち足りた気分になりますが、遠くに探そうとすると人は途端に不安になります。
「不足」のことを人は「願い」と名を変えて呼んでいます。足りないからこそ願えるのであって、言ってみると不足があるからこそ人生を楽しめるのかもしれません。
「不足」とはとても目にしやすいモノです。それに対して「充足」とは目に見えないモノとも言えます。「もう持っている」と信じることで、様々な負の感情は消えていくことになるでしょう。
「自我」「安全」「存在」「幸福」といったカテゴリーにおいて、人は「不足している」と感じがちです。自分の持っているモノに目を向け、充足感を感じられることが最も大切なことなのではないかと感じます。
”目の前の“足りない”に目を奪われて、すでに“あるもの”を見逃していませんか?”
▼ 迷いと解釈
人生は迷いの連続で、それは異なる選択肢を選ぶことの連続でもあります。言い換えれば、選択肢こそが悩みなのかもしれません。
「結婚するかどうか?」「どの会社に入社をするか?」「昼ごはんに何を食べるか?」という悩みには大きさや深さがある様に感じますが、悩みに深さや大きさなどは存在しません。根本的にはイヤなモノは「悩まない」ということ、つまりは「選択肢」入らないからです。
お昼ご飯にラーメンかカレーで迷うのは、根本的に「どちらでもいい」からです。ラーメンと取引先で選択肢に迷うことは、あるでしょうか?あるのであればその取引先に、行く必要はないのかもしれません。
一本道であれば、悩まないという真実を改めて見つめる必要があります。
ただ、多くの人は選択肢を選んだことで「後悔」をすることになります。後悔の本質とは「別の選択肢にしておけばよかった」ということに他なりません。ただここには問題があって「選ばれなかった選択肢を過大評価しすぎる」という事実を知る必要があります。
A社とB社を比べて、A社を選ぶ。思ったような企業ではなく「B社にしておけばよかった」と思う。こんなこと、誰にでもあるかと思います。
でも不思議なことにB社を選んでいたら、もっとネガティブな感情になっていた可能性を完全に無視しています。B社に入った自分のことを知っていて、その自分と比べたのでしょうか?
「絶対に幸せですよ!」という人がいれば、じゃあその選択肢を選べばよかったんではないか?と思いますが、現にその時に逆の選択肢を選んでいないわけですからね。その選択が出来なかった人の「絶対」を、どこまで信じていいのかと思います。
もっと突き詰めていくと、迷うぐらいの選択肢なら別の選択肢を考えた方が良いのかもしれません。その時点で選択肢に上がっていないモノは基本的に予選落ちと考えていますが、決めきれない選択肢に妥協することが善とも思えません。
こんなことを考えていくとキリがないので、今はその時選んだ選択肢(つまりは今の状態)を意識的に「最高である」と考えるようにしています。結果的に現実は「自分の解釈」ですからね。
自分が信じていない世界にこそ「正解」が見つけられるのであれば、今感じている「不満」の状態を信じればいいのではないかと。持っている(その状態である)人にしか見えない世界は、自分には分かりません。だって、持っていないのだから。
人間が感じられない「光」も「匂い」も「音」も存在する事実があるからこそ、自分の「解釈」によって世界を変えられることも簡単なのでしょう。
「病気が再発した?治療が間違っていた?別の選択をしていたら、今のあなたの命がなかったとしても同じことが言えますか?」と、自分に言い聞かせています。
”あなたの「後悔」、それは“選ばなかった自分”を過大評価しているだけではありませんか?”
▼ 頭と心
人間は過去の経験によって物事を判断するので、その情報量としてはとても心許ない中で判断をしていることになります。言ってみると「頭で考えついたことに、ロクなことはない」とでも言えるのでしょう。大切なことは、自分の「心」に従うことです。
自分の「心」や「感情」は、日々大きな気づきを与えてくれます。例えば自分が知らない世界をもっともよく知っている人は「自分の嫌いな人」であることからも、その深さが伺えます。
人は何を嫌うのかと思えば「自分の分からないこと」が最も嫌いです。ですから、自分が嫌いな人は「自分の分からないこと」を多く知っていることに他なりません。
自分の価値観を変えるには、学びを得るには「自分の嫌いな人」から学ぶ必要があります。価値観とは「宗教」の様なもので、何を信じるかは自由です。正しいも、間違っていることもありません。
何を信じていもいい世の中で、自分が傷ついていることを考えてみましょう。それは自分が「その通りだ」と思っているからこそです。
自分が微塵もそんなことを思っていない人を、傷つけることはできません。傷つくのであれば「受け入れる」ことを勧めます。自分の意見も相手の意見も否定することなく、ただ「どちらの意見も正しい」と受け入れることです。
そうすると「矛盾」が生まれますが、そもそも「矛盾してはいけない」と自分は思っているからこそネガティブな感情が生まれるのです。矛盾すら、受け入れましょう。
自己弁護を人がするとき「反対側の意見も自分が支持している」ということが、大きな前提としてあります。相手の意見も「正しい」と思いつつも、自分を正当化しようとして自己弁護をしているのです。
相手も、自分も、矛盾も全て受け入れましょう。
周りを見渡すと「自分はいかに大変だ、苦労をしている」と話をしている人が、とても多いことに気づかされます。理由としては「苦労したことを言えば、人から優しくされるから」でしょう。苦労自慢をしている人に訪れる現実は、ただ一つ「苦労するという現実です。」
「優しくされたい」という願いが叶うためには、その人は「苦労」を共有しなければいけないと信じています。大丈夫、その人の願いは苦労するという現実を通して叶うでしょう。
苦労から抜け出すために必要なことは、他人に対して「与える」ことです。言い方を変えると他人を「褒める」や「認める」ということになるでしょうか。
他人を認めると、自分がいかに幸せだったか気づきます。当たり前の充足は、目に見えないことと全く一緒です。他人を褒めることは、結果的に自分の充足に気づかされることになります。
もう自分の苦労自慢はやめて、他人を褒めましょう。他人を認めましょう。ただその前提には一つ重要なことがあります。
それは自分で自分が「幸せである」と認めること…になります。自分が幸せであり、充足していないと他人に何かを与えることはできません。
周りの人を認めましょう。周りの人に感謝をしましょう。自分が幸せになることが、周りを幸せにするための確かな手段です。
”嫌いな相手は、あなたにどんな「知らなかった自分」を見せてくれているでしょうか?”
▼ 自分
ここまでの道のりを思い返すと、結局「自分」のためであることは否定できません。むしろ自分のために読み、考え、まとめ上げてきたものです。
私は企業の採用担当をしてますが、人には「役割」があると思っています。当社では役割がなかったかもしれませんが、他の会社で役割があったであろう人とはもう無数の出会いがあります。これも、一つの解釈ではあります。
他人の評価のために人は生きているのかもしれませんが、結局のところ他人の評価を正確にわかる方法はありません。文字にしようが言葉にしようが、その本心を知り得ることはできません。結局そこにあるのは「他人の評価を想像した自分の感想」です。
他人の評価を気にするのは、人間の根源欲求である「承認欲求」からくる認められたいという気持ちなのだと思います。ただ、人には「役割」があって生まれてきているのでそもそも「存在」している時点で「認められている」ことに他なりません。
認められていなければ、役割がなければ、そもそも「存在」すらしていないのです。
これまでの考えを統合していくと「認められたい」と考える人に必要なのは、真逆の「認められていない」という現実です。その現状を固定しない限り、認められてないという現実を生み出さない限り、その気持ちは生まれません。
…それが、本当に「願い」なのでしょうか?
現状を肯定しましょう。すでに「~である」と気づきましょう。
- 誰かと別れを迎えたこと
- 企業から採用されなかったこと
- 病気であること
どんなことも肯定し、受け入れていきましょう。
「人生万事塞翁が馬」とはよく言ったもので、点で見れば悲劇も線で見れば喜劇になることは大いにあります。
「ただ、じぶんがいるだけでいい」そう思いながら、生きていきたいですね。
あなたが今ここに「存在している」こと、それだけで“すでに認められている証拠”ではありませんか?
▼ あとがき
だいぶ長くなりましたが、それだけ読み応えのある本でした。最後にも簡単に記載内容をまとめると
- 願いとは「不足」に名前をつけたものであること
- 現実とは「過去の観念」の投影であること
- 解釈を選び直すことが、唯一現実を変える手段であること
- 「すでにある」と信じることが、“足りない”という願いからの卒業であること
- 幸せとは、他者を通して自分に気づく循環であること
- 自分の存在こそが、既に「認められている証拠」だということ
となるでしょうか。
この本は、読むたびに「気づき直す」ための装置のようなものです。そして私にとっては、「ただ、自分がいるだけでいい」と、 少しずつ信じられるようになるまでの、静かな道のりでもありました。


