

若手社員から…最近相談が増えてきた事例があるんだけどさぁ。

一体、どんな相談やねん?

仕事をしていたり、社会に出たり…。
いわゆる「学生時代から違う環境になった」っていう中で感じることが多いみたいなんだけど…。

ん、どういうことや?

自分なりに「抽象化」をしてみたんだけど…。
どうやら社会や会社では『正解が少ない』みたいな感覚を持ってるらしいんだよ。

正解が少ないか…?
まぁ、確かにそうかもな。

うん。何となく自分もそこはそう思うんだけれども…。
じゃあ若手社員にどう説明したら、ある程度理解してもらえるかなぁと思ってね。

そうやなぁ…。
イメージとしてはこの世の中は『正解』以上に『納得解』をみんな重視している…みたいな感じちゃうかな?

納得解?

あぁ、そうや。

うーん…。
なんとなく理解できるけれども、それをどう説明していこうか…ってなるとまだまだ自分には力不足っぽいなぁ。

色んな側面から説明してやって、「相手がピンとくるもの」を拾い上げてもらう…ぐらいでええんちゃうか?

そんな感じでいいの?

この辺はな、正直「相手がどう理解するか」っていう所にになってくんねん。

そうなんだ。

そもそも『論理』というものは、「誰かが信じたら正解になる」のよ。

…どういうこと?

…子供って、喋れないうちは自分の意思表示するのに「泣く」よな?

そうだね。

泣いたら「何かしらを訴えている」わけやから、オムツ替えるなりミルクあげるなりを大人はするわけよな?

うん。

…っていうのすら、「真実」かどうか分からんやんか?

えぇ?どういう意味?

子供が意思表示するのに泣いたのが本当かって言われたら?
誰も証明出来んやんか?だって子供喋られへんもん。

まぁまぁ、確かにそうだけどさ。

だから「子供が泣く=何かをして欲しい」って言う論理は、『誰かが信じてるから成り立っている』わけよ。
同じようなことが、社会人でも当てはまるはずやで?

それは…あれかな?
上司によって捉え方が違ったり、説明の仕方が違ったり…みたいな話と関係ありそう。

まあ、そんなとこもあるやろな。『相手が納得すればそれが正しい』に近いことになるんやからな。
だから『正解』みたいに「一つしかない」って思うと苦しくなるから、人によって正解の代わりに『納得解』がそれぞれあって、その『納得解をいかに調整するか』っていうところが社会人において必要って感覚やな。

うん、なるほどね。

自分はよく「山登り」に例えるけどな。

山登り?

「あの山に登る」みたいなところを決めたら、「登り方」って自由やんか?

まぁ、そうだね。

「どの道を行くのか?」、「装備はどうするのか?」、「スケジュールどうするのか?」みたいなところって自由やろ?

確かに、確かに。

そんな感じで「自分なりに強弱をつけれるところ」が社会の面白さであるって思うねんけど…。
そこを学生的な感覚でいくと、「もうすでに決まりきった効率的な最短ルート」みたいな感じのが存在しないと、ちょっと気持ち悪いんやろな。

あー、そうかもね。

そもそも「正解」っていうのは「自分の気持ち」で決めるものやからな。
この「納得解」っていうのは、「相手の気持ちをどれほど汲み取れるか」っていうところが重要になってくるっていう違いもあるわな。

さっきも言ってたもんね。
論理は相手が決めるって。

そうなんよ。
だから「相手がどういう風に考えているのかな」っていうのを常々考えなあかんから、まぁ今までそういうのやってこなかった人間にとっては「苦痛」かもしれんな。

「万人に当てはまる正解」なんてほとんど無いもんね。
うちみたいなちっちゃい会社でも、いろんな考えの人がいるわけだし…。

まぁ、そういうことや。
この「正解」より「納得解」が大事っていう感覚を、ある程度自分の中に染み込ませていくことが、その若手社員たちの悩みの解決に繋がるんとちゃうかな?

そうだね。
いくつか説明のプロセスを教えてもらったから、自分なりに整理してしっかりと伝えてみるよ。

理解してくれるとえぇな。
